昭和四十三年四月十六日 春季大祭


 只今、親先生から結構な御教えを頂きました。一番初めから最後までもう私は感動のしつづけでございました。
 皆さん中には眠った人がありましたよ。勿体ない話です。もうほんとにですね。
 今日先生が説き下さったところを少しでも頂いてですね、自分のものにして帰ったらそれが御大祭のお土産であり御直会なのです。一番最後のところにお話し下さいましたね、神様の願いがですね、私共の上に成就するということをおっしゃいましたですね。
 皆さん、天地の親神様の願いが金光大神のお取次を頂いて、そして私共信者一人一人の上に神様の願いが現れるようなおかげでなからなきゃでけんのです。
 ところがどうでしょうか。私達の願いは頂きよる。けれども神様の願いは成就しておるのではないと私は思う。ただ自分の我情我欲が満たされるということではない。神様の願いが私共の上に頂けるということ。現れるということはそれは私共は夢にも知らない、分からないことが実現してくるのであります。そういうおかげが展開してくるのです。そういうおかげを頂いた時にです、神様が喜んで下さり、私共も又金光様のご信心を頂いておってよかったということになるのです。
 お祝詞の中にもご奏上下さいました金光大神と天地の親神様の中に教祖の神様の実意丁寧のご信心が天地の親神様との間にそこからひとつの働き会いが起こり、とおっしゃったですね、神様と私共の間に働き合が起こる。それはあいよあけよの働き会いが起こる。ここんところがです。これは金光様のご信心を頂かなければ頂けないと同時に私は分からないところだと私は思う。ここんところは金光様のご信心頂かなければ分からない。一方的な神様じゃない。神様と私共がね、助かり会うていくのだ。ここにあいよかけよが交流するのぞ。通うのぞ。そこで私は思うんです。どういう様な信心から私は神様と私共の間の中に交流する、云わばあいよかけよの道の展開があるかということ。成程それは色々云われております。あいよかけよで立ち行くのだ。神様のあなたのおかげで金光大神のお取次を頂いて、けれども私は本当のあいよかけよの交流というか、展開というか、それはね、どこまでも信ずる者、信じられる者ね、信ずる者信じられる者の中に交流するもの、教祖の神様が真実天地の親神様から、もうこの氏子はと信用されなさる。そこから、神様と教祖の神様との間の中から展開してきたのがお道の信心なんですね。
 御理解の中にございますように、神様を信ずる氏子は多いけれども、神様から信じられる氏子は少ないと申されますけれども、最近私は思うのに神を信ずる氏子すらなくなってきたような感じがするんです。神様のおかげで神様のおかげだと云うておるけれども、ね。本当の時に迷うようでは神様を信じておるとは云えない。よしそれが信じておっても日々お取次を頂いて、親先生のお取次を頂いておかげを頂いておる。成程神様じゃなあ、やはりこれがおかげというのであろうか。だんだん神様を信じられるようになるね。皆さんもそうでございますね。皆さんが一人一人おかげを受けておられる。そのおかげというのがです、金光大神のお徳によって頂いておられるおかげなんです。そこから皆さんが少しづつ信じられるようになる。神様が信じられるようになってきた。確かに神様ちゃござる。そりゃござるですよね。
 医者が見放した病人が助かるんです。どうにも解けなかった問題がお取次を頂く。その日から有り難い方へ展開してくるんですもの。神様の働きちゃ有り難い、いわゆる新たかなもんだなあということが分かる。だから神様を信ずる人はだんだん出来てくるんですけれども、神様から信じられる氏子が少ない。信じられなければ神様から信じられなければね。お祝詞の中にあった教祖の神様と天地の親神様の中にね、願い会い、頼み会い、ね、あいよかけよね。親のことは子が願い、子のことは親が願いあいよかけよで立ち行くような、立ち行く本当なおかげになっていかないのです。ただ目先のおかげにはなっていく。いわゆる親先生がおっしゃるところの神の願いが私共一人一人の上に現れてくる。神の願いが地上になっていくことのおかげが、縁遠いことなんです。
 これには私共が先ず神様に信じられる私共にならなきゃいけん。そこで、皆さん神様に信じられる氏子とはどういう信心させて頂いたら神様に信じられるようになるか。いよいよ神様に信じれれるようになるかということになるのですね。昨日親先生朝から晩まで御用して頂きました。もう私が何にも出来んものですから御大祭となるともう親先生が一人でそのバタバタして下さる。今日の裁ち物なんか全部親先生がして下さった。もう私は先生の御用ぶりを見とって思うんですよ。親先生がこう素晴らしい几帳面なお方じゃから私共ろくそなかつ「     筈と思うんです。ほんとに皆さんご覧になったでしょう。こうお払いをする、あれやら赤い布をつけとったあれやら、もうそれこそお菓子のように作ってござる。見事なことです。あれを親先生のご性格だから、ああいうご性格に私共が神習わせて頂かないと親先生の気に入らん。親先生に修行してもらえない。けれども、さあそこがもって生まれたところがね、磨いても磨いても磨ききらんもんですから、一生懸命全て出来るようであるけれども後は出来ない。そこで親先生のお心に添うことが出来んと云うことの結果になってくるのです。
 私、最近寝たり起きたりしております。昨日も親先生が見えとりますけれども、寝たり起きたりしながら親先生の御用して頂いとるところに時々出てまいりましてから、親先生のお相手をさせて頂くんです。親先生が応接間で一服されながらです、大坪さん、私しゃこの頃こげなおかげ頂きよるとおっしゃるんです。この頃はなあ、私しゃもう色々好き嫌いがあった。食べ物の中で、けれどもこの頃何を食べても美味しい。食前に出てくるものそれが全部が有り難い。昔はそのウニが好きじゃった。あげなもんが嫌いじゃったというようなことがあったんだけれども、この頃は特別好きなウニが出てきても特別たくさん食べたいとも思わない。もう何を食べても有り難い。食前に出てくるそれがありがたいとそうおっしゃるんです。私はそれを聞かせて頂きながら、親先生それが先生極楽でございますねと申しました。ね、私は極楽というのは境地を開かせたそういうようなことだと私は思うのです。何を食べても美味しい。何を食べても有り難い。そかもそれがあれを食べなきゃならんというのではない。これを飲むまなけばならんというのでもない。何を食べても何を飲んでも食前に出てくるそれが全部有り難い。これが血に肉にならない筈がない。 昨日は、文雄先生が親先生の背中を流させて頂いて驚いているんです。体にニキビがいっぱい、私より十幾つ多あんなさいますけれども、私より若うしとんなさいます。そういうような御信心から私はそういう健康に恵まれたおかげを受けておられると、私は思うんです。そこでです、私共がです天地の親神様からね、食前に出して頂けるこれは食べ物だけじゃない、私共の周辺に起きてくる全ての一切を若くても辛くても臭くてもこれを有り難く頂けるようになった時にですね、私共は本当は神様、金光さまのご信心の一人前というようなことが言えるじゃないか。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになるととおしゃるね。あれもあれとは過去のこと、これも現実取り組んでおるもの、難儀と思えることは難儀ではない。これは神愛なんだ。神様の心の現れなんだ。もう氏子助けにゃおかん、幸せにせずにはおかんという現れなんだ。ね、ですから若いの辛いのと云わずにそれをほんとに合掌して受けさせて頂ける私共にならせて頂くということ。
 天地の親神様です、氏子一人一人の上に下さる物、その一切が神様の思いにもどさせて頂けれる時に、私は今日親先生がおっしゃって下さった神の願いがね、地上に又は私共一人一人の上に現れてくるそういう信心をさせて頂くところに、あの信者はあの氏子はという神様の御信用がついてくるのじゃなかろうかと私は思うのです。どうでしょうか。
 あれは嫌い、こげなもんじゃ私は馬鹿らしか、損のいく。自分の都合の良かつだけは頂きよる。でなかったらいらない。これで神様の御信用がつく筈がない。又それが血に肉になろう筈がない、ね。 
 これは健康五体だけのことだけじゃありません。心の上にそれが私共がなされる時、それが有り難く頂かせて頂けれるおかげになってくる時、そういう信心をお互いが目指して頂いて、ところがです、ねそれはふうたらぬくい信心しとったっちゃそれが有り難く頂けんですね。けれども本気で朝参りでもさせて頂いて日々修行が出来お取次頂いておる時にはです、日々のなかに起きてくる問題そのものがです、どのような場合でもおかげとして受けられる。どっこいとそれを受け止めることが出来る。そういう私は信者にならせて頂かなければ神様の御信用は頂けないと、神を信ずる氏子はだんだん多くなるけれど、神から信じられる氏子がというそれを久留米の初代の石橋先生のことをもってお話しくださいましたですね。私共の先覚先輩にはそういう素晴らしいお徳を頂いた先生方がおられる。そういう先生方のご信心を本気でひとつ神習わせて頂きましてですね、そのことを私は願うていく信心、そこからいわゆる神様と私共の間に勿論金光大神のお取次のいく下に神様と私共の間の中に働き会が起こってくる。いわゆる信ずる者、信じられる者そこから交流するものはどういうことになりますか、ね。
 例えば、私がもし信じてくれておる人が私がブーとしているならです、今日は先生どうかあんなさっとじゃろか、機嫌が悪うあんなさるとじゃろうかという風に思ってくれる。 ところが、私が信じてない人は腹をたてる。そうでしょうが、ね。神様から信じられるとです、人間どこにお粗末ご無礼があるやら分からんけれども、それを神様が目を細めて見て下さる感じて下さる。どうでも神様に信じられる氏子にならせて頂く為に今日の親先生のあの御教えをですね、本気でひとつ頂かせて頂いて、一番初めに子供をもって合点せよ。天地の親神様が私共の上にお守り下さる、思いを掛けて下さるそのことを悟れとこうおっしゃる。私は信心は悟っていくことだとこう思う。それにはです、話を聞けば誰でもすぐ分かる。天地の親神様であるということが私共がその氏子であるということが分かる。けれども分かっただけじゃなあにんならん。分かって行じねばつまらん。そこからです、成程神様じゃなあと、成程天地の親神様じゃなあということが分かるのです。そこから信じられるところの信心、同時に信じられる前に先ず私共本気で神様を信じられる、私は信者にならなければならない。お取り立て頂かなければならないと思うのでございます。ありがとう御座いました。